寝床に入っても眠れぬ日々が続く中、夜中の3時。
ふと、空中に黒い影がういていた。
背筋がゾッとした。
「吐き出してしまいなさい。」
声がした。
智伯だった。
「心の中にあるものを吐きだしてしまいなさい、そうすれば楽になるから。」
智伯は言葉をつづけた。
「恐怖や苦しみが増してゆく。それは、相手の得体が知れないからだ。そして、
それは、実は相手ではなくて、自分の不安の種なのだ。
自分では絶対に面白いと思う作品を書いて、出版までの時間を待つ間、
いったい読者がどんな反応をするだろうか、もしかして、全然面白くないと
言うのではないだろうかと不安で苦しくてたまらなくなるだろ?
それは、読者の反応がどうなるか分からないからだ。予測できないからだ。
だからこそ、その不安の正体が、そなたのパーソナルイメージの死の闇とつながったのだ。
人はなぜ死を恐れるか。それはすなあち、死の正体がわからないからだ。」
「人は病気を嫌う。風邪を嫌う、虫歯をきらう。痛い、くるしい。でも恐怖におののかない。
なぜなら、その苦しみは以前体験しており、痛みや苦しみの尺度が分かっているから
耐えられるのだ。しかし、死の先はわからない。だから恐ろしい。」
「ならば、死の正体を教えよう。」
智伯がそう言うので私は身を乗り出した。
「人は死ねば土くれ、何も感じず、何も聞こえぬ。熱くも寒くもない。そこで時が止まる。
よって、一生懸命働いて充実してきた人は、たとえ一時は病気で苦しんできても、
日々後悔なく生活していた時間で時が止まるので、死後も充実した気持ちで時が止まる。
自殺は苦しい現実から逃れるために死をえらぶので、苦しい現実のままで時が止まり、
永遠に苦しみから逃れられない。
人を騙し、殺し、苦しめたいと願い、また、そうして生きてきた者は、人をむさぼりたくて、
人を苦しめたい欲望に渇望しながら、そこで時が止まる。時が止まると動けないから、
人を苦しめることができない、人を不幸に陥れる快楽、人を騙して得をする喜びを
永遠に味わうことができず、渇望に永遠に苦しみ続ける。
そのようなそれぞれの心が永遠の時の中で止まるのだ。我ら眷属や神の使いの
目にとまり、この世に転生するその時までな。
だから、池内慶は、そなたに一生懸命働け、後悔なく人生を送れと指示を出したのだ。
そなた、それが理解できておらぬだろう。」
智伯はそう言ってにっこりと笑った。
たしかに池内慶がなんとかカンガルーとかチラシの裏に書いていたときには、私はこいつは
馬鹿じゃなかろうかと思った。
そうか、一生延命毎日を後悔なく生活していれば、たとえ、突然の事故で死んでも、病気で
苦しい思いをして死んでも、その後悔なく充実して生きた足跡で時が止まり、
永遠の充実がえられるんだ。そうなんだ。
だから、精一杯生きろと言ったんだ。
知ってしまえばなんということはない。
私はそう思った。
その思いを智伯は読みとる。
「そうであろう、それだけのことだ、実際にその実体をしってみれば、実に気にすることもない
たわいものないことなのだ、だからもう、苦しみもがくのはやめろ。そしてゆっくり眠れ。」
そう言って智伯は消えていった。
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私は死んだら自分の意識のとこ(仏教徒は仏の霊界、神道徒は神道の霊界、キリスト教もイスラム教もその人の思念っていうか想念の世界にいくって思ってましたが、智伯さんのお話でやっぱり一生懸命生きないといけないんだなあ
って、改めて思いました。智伯さんありがとうございました^^