慶ちゃんたち、うちにいる地霊はイチゴが大好きなので、
ひょっとしてお庭の花たちもイチゴが好きかなと思いました。
もし、ほしがらなくても腐って土になれば肥料になるかと思って、イチゴを少し切って
お花の鉢に入れました。すると、日頃何も言わないお花が「ギャーッ!」と悲鳴を上げたような
声が心に聞こえたので、慌ててイチゴを退けました。
あとでよく考えると、イチゴって種がいっぱい詰まった実なので、植物にとっては驚異なんだなと
思いました。
植物にとって怖いのは雑草などの種子で、それが成長して自分が凌駕されてしまうことが
一番怖いみたいです。
草花の気持ちになってなかったなと思って反省しました。
今日は地元の神社に参拝してきました。
すると声が聞こえました。
「氏神が氏子を見捨てることはない、氏子の苦難を黙殺することはない、よって氏子が道を違えれば
かならず天罰を与える。」
最初意味が分かりませんでした。必ず氏子を助けるなら、どうして天罰を与えるのかと。
天罰というのは時に死をもたらすこともある恐ろしい祟りですからね。
どうしても意味が分からなくて慶ちゃんに聞いて見ました。すると
「絶対見捨てないから天罰を与えるんだよ!どんな無礼があっても氏神様は
黙殺したり見捨てたりしないんだよ!だから例え天罰を与えて殺すことがあっても、
無視はしないんだよ!」と言ってました。
稲荷神社を家に建立したりして、お金持ちになったあと、稲荷を放置して放棄してしまったりすると
子孫が祟られると言いますが、これも稲荷の眷属の情が深いかららしい。
絶対に見捨てたり黙殺したりしないからこそ、
最後まで祟って気づかせようとするんだそうだ。
それで、気づけば良し、気づかなければ、死ぬぐらいまで警告をエスカレートしていることになるらしい。
なぜ、途中でやめないかというと、氏子を絶対に見捨てないから。捨てないから。
その、絶対に見捨てないという信頼感によって神と氏子は繋がっているらしい。
信心とはそういうものだという。深い話を聞いてしまった。
だから神は信頼しなければならないし、信仰するなら、いいかげんなことをしてはならないそうだ。
それから、自分ではどうしようもない天罰や祟りはないそう。人間が気づいて、考えを改めれば
祟りも自ずから収まるという。
でも、多くの場合、その人がうまくいかないのは、努力が足りないのか、何か、努力の方向性が
間違っていて、あさっての方向に動いているからだそうだ。
一生懸命努力しているのに、天罰や祟りでうまくいかないということは、まずないらしい。
大切なのは信じて懸命に努力することだそうだ。
そんな話を聞きました。
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もしかして神様は私の為にメッセージを下さったのかも?
私の崇敬神社に行く途中、あるカトリックの教会があるのですが、そこの案内板に毎週必ず聖書の一節が張り紙になって掲示されています。
少し以前、その案内板に、
「神は試練とともにそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます」
という『コリントの信徒への手紙』の一節が貼られていました。
教会に貼られるそれらの聖書の一節一節は、毎回毎回その時の私の置かれた状態に相応しい内容のものがドンピシャで貼られていていつも驚かされるのですが、
上に書きました『コリントの~』も妙に印象に残るものでした。なんだか私の心の状態をピタリと言い当てられているような。
そして今回の楠さんのエントリを読んだ時、まさにシンクロニシティを感じました。
実は今日は聖書のその一節の前後を読んでいたところだったからです。
その一節の前にはこうあります。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです」と。
日本では「神試し」とか「神鍛え」等ともよく言いますよね。
そんな文句にも最近よく出会いますし、ぶっちゃけ今の私は「試練」の真っ最中なのかなあなどと感じています。
でも、「気づくまで天罰続行」って…厳しいですね(^_^;)